永大産業サッカー部

ここがセルジオ越後が住んでいた家

父さんが子供の芝で試合した事あるか? コウタ

小学校・中学校の練習は芝のグランドだったよ。 父さん

永大グランドって知ってるか?

あそこが練習場、タイガの父ちゃんも、あのグランドで練習してた

今は土のグランドだけど、子供の頃は全部芝だった。

なんで芝が無くなったかというと、永大産業という会社がサッカー

部を無くしたから、それからグランドが放置され、芝が雑草になっ

て変わっていった。


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この縦じまのブティック、平生の実家で見たろう。

ACミランじゃないぞexclamation×2

このアカクロが永大産業サッカー部のユニホーム

たしかこの本も実家のどこかに・・・

「サッカー部をつくれ。3年で、天皇杯を獲るんだ」

伝説のワンマン経営者から特命を受けた河口洋が奔走する。何も無い田舎町からグラウンドを作り、部員を集め、周囲の理解を得ていく。
時には手段を選ばず、死に物狂いで手を尽くす。

これが今の時代だったら
到底不可能な夢物語だろう。3年で天皇杯を獲ることがどんなに難しいことか。普通に考えたら3年で本大会に進むだけでも驚異的なことである。
ゲームの「サカつく」じゃあるまいし。
まだサッカーがマイナーなスポーツだった時代だからこそ、その夢を追えたのである。

しかし、夢は夢で終わらなかった。
永大サッカー部に在籍した何人かの選手はその後指導者となり、実際にJリーグで活躍する選手を育てたのだ。

 最後は泣けてしまう本ですもうやだ〜(悲しい顔)



永大産業サッカー部

山口県平生町に存在したサッカークラブ。1972年創部、1977年廃部。
1972年、まだ釜本邦茂が現役選手としてヤンマー(現セレッソ大阪)に君臨していた時代。
急成長中の永大産業創業オーナーで超ワンマンな深尾茂はスポーツで日本一を目指すとして、工場のある山口県平生町という小さな町に、サッカーチームを作り、3年でトップリーグに上がれと指示し、そこからチームが創り上げられるところから話は始まる。

もちろんそんな無名チームで、かつ中国地方の地域リーグにいい選手が集まるわけもなく、様々なルールの隙をついたり、時にはルールそのものを変更させたりと、あの手この手を使いながら昇格への階段を上がっていく。そんな中、強豪チームの解散により主力選手をごっそり入団させられるという運(もちろん企業の資金力とオーナーのトップダウンというバックアップもあり)もあって、一気にトップリーグに昇格した。わずか3年でのことだった。その中で、チームが昇格してくと同時に、それにかかわる、工場の人、地元の人たちが、サッカー部を中心に団結し、地域が活性化していく。これぞ、Jリーグ100年構想そのもかと思われる光景が30年前に山口県で起きていたのには驚きだった。結果チームはリーグ1年目は入れ替え戦に回るくらい。苦戦するも、天皇杯では快進撃を見せ、元日決勝まで勝ち進む。相手は釜本率いるヤンマーだったが、惜しくも準優勝に終わる。しかし永大産業の経営危機とともに、チーム解散の機運が高まり、紆余曲折しながら、1977年チーム解散となる。
わずか5年という短い歴史で幕を閉じる。



歴史
大阪府に本社を置く建材メーカー・永大産業の深尾茂社長が「日本一のスポーツチームのオーナーになってやろう」と1972年、工場のあった山口県平生町を本拠地としてサッカー部を創部。また、前年に休部した名古屋相互銀行(名相銀)所属6選手の受け皿にもなった。


深尾の特命を受けた東京ガスサッカー部(FC東京の母体)出身の河口洋がチーム作りに当たった。また渡部英麿らに選手補強の協力を仰いだ。大久保賢らの広島出身の渡部の教え子らと移籍を希望した計6選手が名相銀から移籍。やはり日本リーグ(JSL)出身の選手の力は大きく、よく整備されたグラウンドもあったため、一年でJSL二部入り、二年目にJSL一部と短期間でJSL昇格を果たした。1974年後期以降は加わったジャイロジャイールアントニオのブラジル人トリオの活躍により躍進。JSLでは上位進出はなかったが、同年の第54回天皇杯で創部三年目で決勝進出という奇跡的な偉業を達成した(釜本邦茂擁するヤンマーに1対2で惜敗)。

もう一つ特筆すべきはブラジル人選手を入団させた点。当時もすでにセルジオ越後ジョージ与那城ら、多くの日系ブラジル選手がプレーしていたが、生粋のブラジル人選手を最初に加入させたのはこのチームである。

1975年にはセルジオ越後がコーチに就任し、トップチームの指導のみならず地元の少年サッカーの指導にもあたった。しかし1977年3月に、会社の業績悪化のため廃部が決まった。サッカーを続ける意思のあった選手たちは本田技研や東芝へと活動の場を求めた。親会社の永大産業は1978年、約1,800億円の負債を抱え、当時としては戦後最大ともいわれた倒産をした事で有名だが、2007年再上場を果たしている。

セルジオの永大入りはトップチームの強化を助けることと、平生町の施設で少年サッカーの指導を行ない、この地域でレベルアップを図るとともに、企業と地域社会との交流深めるという狙いもあった。

在籍した渡辺義成や小崎実は、その後地元ジュニアチームを指導。渡辺は岩政大樹らを小崎は岡村宜城らを育てている。また横山孝治は愛知学院大学総監督として秋田豊や吉村圭司らを育てた。井上昭二は岐阜VAMOSを創部、このチームは荻晃太、津田知宏、青山直晃らを輩出している。また塩沢敏彦はネパール代表監督を務めた。

略歴と主なタイトル1972年 1月、創部。全国社会人サッカー選手権大会優勝
1973年 JSL2部昇格
1974年 JSL1部昇格
1975年 セルジオ越後がコーチに就任
1976年 永大サッカー部に改称
1977年 3月、廃部

順位1973年 - JSL2部 1位
1974年 - JSL1部 9位
1975年 - JSL1部 5位
1976年 - JSL1部 7位


全所属選手(1972年正式発足後)大久保賢(初代監督)
塩沢敏彦(コーチ、二代目監督)
井上耕太郎
山口直弘
橋本優
清田英治
福田吉男
横山孝治
角和雄
小崎実  (元 周東FC監督 ・現 クレアーレ監督)
竹下悦久
中村道明
松原康明
渡辺義成(元 周東FC監督)
高田喜義
山本誠
井上昭二
松尾孝二
中山勉
大町玄斉
梶谷敏文
鈴木力
ジャイロ・S・マトス
ジャイール・A・ノバイス
アントニオ・G・ペレ
城山義輝
セルジオ越後(コーチ)
河本権福
管勉
佐藤孝信
権代正樹
三瓶弘幸
大多和昇
井上伸一
岡幸司
曽根政芳





posted by KAKA at 16:30 | 山口 晴れ | めざせ Fantasista